親のありがたさは身に沁みました。食事をつくる以外のことはすべて自分でやる生活になるわけですから。自分には夢がありました。中学の頃に見た皇宮警察(皇居の警備に関わる専門の警察部隊)の颯爽とした姿を見て進む道はこれしかないなと。目標は不安を乗り越える力になります。いつもテレビが見られる環境ではなくても、新聞を読む機会が増え、自分で考え、物事を理解する習慣も身につき、環境が人を成長させることを実感しました。またどこに行っても財産になる礼節を学んだことは大きかったです。皇居勤労奉仕では、日本人の精神を学び、自分の憧れる仕事を間近に見て、想いは強くなりました。残念ながら採用試験は通らず、大学から再チャレンジすることにしましたが、受験準備に残された100日間で、先生たちの熱意ある指導で合格。やり抜く力と折れない心が備わりました。将来の目標を持つこと、それを叶えるために何をすべきかを考える大切さを教えられる場所です。
勉強ができる場所というのが魅力でした。マンツーマンで教えてもらうこともできましたし、臆せずどんどん質問ができる雰囲気も良かったです。時間を有効に使う習慣ができたこと、人間関係を実践で学べたのは大きかったです。行事も多く、模試の点数が下がった時などは、きついなと思いましたが、課外活動の中には、体験しがたいボランティアもあって、自分の基軸をつくるうえでは大切なプロセスでした。「人としてどう生きていくか」を考えていく中で、教育勅語や過去の偉人の話などを、国や人を豊かにしようという想いを持った先人の知恵として知る機会を得られました。そのことは自分の中で、お金を持つ人だけが幸せなのではなく、やりたいことをやり、生き方を貫けることが幸せだという考えにつながりました。それが今、「日本の役に立つ仕事に就きたい」という強い願いとなって実現しています。
入学していた3つ上の姉が帰省した時、礼儀と思いやりに溢れる人に変わっていて、人はこんなにも変われるのかと驚きました。中学時代から地元札幌のラジオ番組で、勝ち抜き歌合戦のような番組に出たりしていましたが、高校に入っても、マンドリン合奏を経験したり、自由時間や周りに人がいない時には歌える。だから音楽シーンから置いていかれるという不安もあまりありませんでした。本音で言い合って、喧嘩別れして、またつながるっていう友情はすごいと思います。その中で、人と触れ合うとか、甘えるとか信じるとか、自分に何ができるかを考え、支え合うためのスピリッツが育まれていきました。この年齢になって思うのは、親が育てるのは15歳まで、多感な時期に親元から離すことはいいことだと思っています。いつも生きるための選択をしていたし、社会の便利なものとは離れたけれど、人として必要なものは何かをいつも考え、それを学ぶためにこんなにも失敗を経験できる場所はなかった。マンドリンオーケストラの演奏も個人個人が役割を果たさないと成り立たない。うまくなる努力をするしかない。韓国での演奏旅行の時、指揮者がタクトを振った瞬間に、言葉は通じなくても合奏が成り立っている。今、分かり合えているって鳥肌が立ちました。音楽を仕事する通り道としては悔いのない選択でした。
なぜ松風塾高校かと言えば、受けたら受かったからです(笑)。深く考えてなかったかもしれませんね。入ってから普通の高校とは違う環境には驚きました。僕がいた当時は、一部の先輩との関係が決して良好なわけではなかった。自分は理不尽なことに黙っていられるタイプではないので、いろいろ直訴して、その結果、雰囲気も大きく変わりました。でも協調性はちゃんと学びましたね。全員必修のマンドリンの演奏では、僕は劣等生でしたが、懸命に食らいつきましたし。いまでも当時の友人とはつながっています。そして松風塾高校のような学校にいたことを今も話のつかみとして口にすることもあります。高校進学の時には後輩たちが大勢で見送ってくれるような、そんなガキ大将的な自分でしたが、個性を受け入れ、どんな生徒も置いてきぼりにはしないところがすごいなと思います。今の言葉で言うとダイバーシティを先取りする環境ですね。今思い出しても嫌いな先生は一人もいませんでした。建築の専門学校に進学し、その後23歳で内装施工会社を起業。出身地の大阪や東京にも拠点を持ち、飲食関係や不動産業など幅広い事業を展開していますが、こういう今の自分をつくってくれたのが松風塾高校だと思っていますし、娘も通わせたい学校だと思っています。決して優秀な生徒じゃなかったですけど、自分の話を載せて大丈夫ですか?(笑)